万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

320.巻三・465~469:亡妾歌十三首の第二群

465番歌題詞:朔(つきたち)に移りて後に、秋風を悲嘆しびて家持が作る歌一首

朔(つきたち)に移りて:月が変わって。夏六月から秋七月に入って、の意。

訳文

「この世ははかないものだとわかっていながら、秋風が寒々と身に沁(し)みるので、亡き人が恋しくてたまらない」

書き出し文

「うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 偲びつるかも」

第一群冒頭歌462番歌で予感した「秋風悲嘆」がいま事実となったことを歌い、前歌の「偲ふ」を承けることで、以下469番歌に至る第二群を起こしている。

うつせみの 世は常なし:家持に多く歌われた無常観のうちで初出のもの。

466番歌題詞:また、家持が作る歌一首あわせて短歌

また:前歌を承けてまた、の意。

訳文

「我が家の庭になでしこが咲いている。その花を見ても心がなごまない。ああ、いとしい妻が生きていたなら、仲よく水に浮かぶ鴨のように二人肩を寄せあってながめ、その花を手折って妻に見せもしように。人の身ははかない仮の命だから、露や霜が消えてしまうように、妻は山道をさして夕日のように隠れてしまったので、それを思うと胸が痛む、だが、言いようもたとえようもない、ゆく舟のあとかたないようなこの世なのだから、どうしようもないのだ」

書き出し文

「我がやどに 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず はしきやす 妹がありせば 水鴨(みかも)なす ふたり並び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身にあれば 露霜の 消ぬるがごとく あしひきの 山道(やまぢ)をさして 入日なす 隠りにしかば そこ思ふに 胸こそ痛き 言ひもえず 名づけも知らず 跡もなき 世間(よのなか)にあれば 為むすべもなし」

464番歌を承けて秋の実感を縷述(るじゅつ)した。家持最初の長歌

借れる身に:肉体は仮のものとする仏教思想によるもの。

跡もなき:351番歌を踏まえている。

反歌

467番歌

訳文

「時はいつだってあろうに、今の今、わが心を痛ませてなぜに家を出てゆくのか、わが妻よ。乳のみ児をあとに残して。」

書き出し文

「時はしも いつもあらむを 心痛く い行く我妹か みどり子を置きて」

亡妻挽歌にみどり子を登場させるのは人麻呂の210番歌を先蹤とする。ただし家持の子はこの年、六歳前後か。

時:死ぬとき。

心痛く:妻が死んだことに対する作者の心情。

みどり子:三歳以下の子。この遺児は後に藤原久須麻呂に求婚される娘らしい。妻が死んだときにはみどり子であったか。

468番歌

訳文

「妻が家を出てあの世へ行く道がもしもわかっていたなら、前もって、妻をひき止める関も据えておくのだったのに」

書き出し文

「出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 関も置かましを」

事前に知っていたらこうもすべきだったのにと悔やむのは、挽歌に多い発想の一つ。

469番歌

訳文

「妻が見ていとしんだこの庭のなでしこの花が咲いて、思えば妻が逝ってからははやくも月日は流れ去った。私の泣く涙は、まだ乾くひまもないのに」

書き出し文

「妹が見し やどに花咲き 時は経ぬ 我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくに」

長歌冒頭のなでしこの花を再び取り上げて、尽きぬ悲しみを訴えることで長反歌をまとめ、同時に、妻をよび求めて慟哭する第二群を歌い納めたもの。この歌は、憶良が日本挽歌(794~799番歌)で慟哭する部分の最後に位置する798番歌を踏まえている。

引用した本です。

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今朝の積雪はゼロ、朝食後に雪割り作業を少し行う。

では、今日はこの辺で。