万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

157.巻二・114、115、116:但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首とほかに二首

114番歌

訳文

「秋の田の穂の向きが揃って一つの方向になびいているように、ひたむきにあの方に寄りたい。噂がひどくても」

書き出し文

「秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛(こちた)くありとも」

115番歌

題詞

「穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遺はす時に、但馬皇女の作らす歌一首」

訳文

「後にのこって恋しく思うより、かなうことなら追いかけて行きたい。道の曲がり角に標を結ってください、あなた」

書き出し文

「後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の隈廻(くまみ)に 標結(しめゆ)へ吾が背」

116番歌

題詞

但馬皇女高市皇子の宮に在す時に、窃(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひ、事既に形(あら)はれて作らす歌一首」

訳文

「人の噂のうるささ煩わしさにいままで渡ったことのない、朝の川を渡ることだ」

書き出し文

「人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」

神野氏編の本の但馬皇女を引用します。

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但馬皇女高市皇子、穂積皇子の三人は、天武天皇の皇子女で異母兄弟、題詞によれば、但馬皇女は、かなり年上の高市皇子の妃の一人として宮に同居していたが、穂積皇子との恋に陥り、この密通事件は人の知るところとなった。その恋愛事件のそれぞれの局面で皇女が歌ったものとして、万葉集はこの三首を載せる。尋常でない恋の物語のなかにあった歌として読むことをもとめるのである。

第一首(114)は、思いのひたすらなたかまりをいう。一首の意は「君に寄りなな」に集約される。・・・

第二首の題詞にいう山寺行きの事情は、恋愛事件による勅勘という説もあるが、不明。要は、短くない期間、二人が遠く離れてあるような事態が生じたということである。「後れ居て恋ひつつあらずは」というのは、留守の歌の定型のひとつであった。「・・・ずは・・・まし」と反実仮想のかたちを取り、「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを」(巻二・86)、「後れ居て 恋ひつつあらずは 紀伊の国の妹背の山に あらましものを」(巻四・544)など、のこった者が、かなうならそうでありたい、と実際には不可能なを承知の上でいう。この歌でも、追いかけることなどできないのはわかっているのであり、現実性をもっていうのではない。・・・・・・

第三首は、題詞にことが露見した後の歌をいう。皇女は高市皇子の宮に居るのだから、皇女から会いに行くことになる。人目を避けるために未明の川を渡るととるのが有力だが、「朝」は人目につかないような早い時間帯を意味しない。むしろ人目に立つかもしれないような時間である。それなのにあえて渡る・・・会いに行くのか、帰りかといえば、後者であろう・・・、いままで噂を慮ってしたことがなかったがいまはそうする、というのである。人言を強く意識しながらかえってそれに挑むかのような語気も、この説によって見るとき、うけとめやすい。

万葉集が三首を載せることについていえば、皇女への非難を向けているわけではない。むしろ共感をよせているともいえる。しかし、それはあくまで如何ともしがたい思いをかかえる人の歌への共感にとどまる。男の側はどうであったか、事件の結末はどうなったか等は、問題とならないのである。」

記載に当たり、犬養氏の「わたしの萬葉百首 上巻 23 朝川わたる」も一読しました。

なお、115番歌と116番歌は、但馬皇女の作とされるが、実際には伝承的性格の著しい歌であると下の本の「但馬皇女と穂積皇子の悲恋の物語」に記載してあります。「第二部」万葉秀歌「第二期の和歌」に」

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なお、犬養氏は、「・・・但馬皇女和銅元(708)年に亡くなった。その時、穂積皇子は、亡くなった但馬皇女を思って、ああ、降る雪はひどく降ってくれるなよ、吉隠の猪養の丘に眠っていらっしゃる但馬皇女が、さぞ寒かろうにと(巻二・203)。こういう心持ちを思うと、穂積皇子という方も、但馬皇女に切ない愛情を、かって感じていた人でしょうね。だから今、自分のために苦労かけた但馬皇女に、深い心を寄せている歌ですね。こんな悲劇もありました。恋の悲劇ですね。それじゃ但馬皇女の御歌を、もう一度うたってみましょう」と。

もうじき朝の五時です、では、今日はこの辺で。