101.万葉集と壬申の乱(1)
万葉集の日記の記載は久しぶりです。
万葉集に関する忘備事項として、表記を記載します。
(ただ(2)の記載の予定は、いまのところ無いのですが、とりあえず(1)としました)
長部日出雄氏の「「古事記」の真実」(文春文庫)を読んでいて、下記の文章に触れたからです。
「壬申の乱で、もしも大海人皇子が敗れ、それとともに大伴氏も滅んでいれば、『万葉集』はたぶんこの世に現れていない。そして『古事記』は、むろん生まれるはずもないのである」
68から73頁にある「地方豪族と物部支持」と「大和の戦い」を一読いただければと思います。
壬申の乱を題材として、多くの小説が執筆されています。
その中の一人、黒岩重吾氏の「古代史への旅」(講談社文庫)などを読みますと、氏の古代史への歴史認識と史観は無味乾燥なものではなく、魅力あふれるものと思います。
壬申の乱以後、律令体制の完成へと大きく踏み出すこととなり、万葉集に壬申の乱に関する歌も伝えられることとなりました。
柿本人麻呂の「高市皇子挽歌」の長歌(巻2・199)には司令官の役割を果たした皇子の戦いぶりが描写されています。
(長歌なので略します)
また、乱の平定後に歌われたと伝えられる歌も記録されています。
巻19・4260~4261の歌です。
壬申の年の乱の平定せし以後の歌二首
「大君は神にし座(ま)せば赤駒の匍匐(はらば)ふ田井を都となしつ」(4260)
(天皇は神でいらっやるので、赤駒が腹ばう田を都としてしまわれた)
右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
「大君は神にし座せば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(4261)(作者いまだ詳らかならず)
(天皇は神でいらっしゃるので、水鳥が鳴き騒ぐ沼を都としてしまわれた)
右の件の二首は、天平勝宝四年二月二日に聞きて、即ち茲に載す。
そして、天智天皇の都、近江宮を後に訪れた柿本人麻呂の「近江荒都歌(巻1・29~31)」、さらに、荒廃した旧都として集中に現れることが多いです(巻1・32~33、巻3・305)。
以下の本を参考に記載。
壬申の乱に多くの作者が、乱関係の人物にロマンを感じ、小説としたのだと思うのです。
そして、この時代をとりまく国際情勢を踏まえた幅広い歴史認識が、壬申の乱を題材とした小説を執筆するうえで必要なのでしょう。
いまも国際情勢を幅広い歴史認識で理解することが、とりわけ大事ですね。
日本書紀、古事記そして万葉集がない日本史を想像できないのです。
今年(2015年4月22日~25日)訪れた京都で、購入したお地蔵様や御所人形はなかったかもしれないですね。
1)西芳寺の門前で購入
2)二年坂の島田耕園人形工房で購入の豆御所人形
端午飾り
祗園祭
森浩一氏の「万葉集に歴史を読む」にも壬申の乱についての記載があります。
第三章の高市皇子を挽歌からさぐるです。
三:柿本人麻呂の高市皇子への挽歌:長歌(巻2・199)について
「古の人びとの愛や憎しみ、執念や悲哀・・・「萬葉集」には、数々の人間ドラマと歴史の激動が刻まれている。・・・美しい歌の背後に潜むこうした生の歴史が浮かび上がる。・・・壬申の乱の知られざる背景、・・・」と裏表紙にあります。
追記:2015年6月12日
氏のこの章(天武天皇の鑑は聖徳太子)のたぶん結語は以下と思うので、少し長いですが追記します。
「長部氏は、壬申の乱の遠因は、中大兄皇子=天智天皇の近江遷都にあったと思われると記載し、結果として、「日本」という国家の原型を生み出すもとになったとも。」
中略
「・・・しかし、壬申の乱とはつまるところ、唐風と国風の戦いであって、唐風一辺倒の近江朝が勝って継続していれば、和語と漢語を結びつけて日本語を再創造した『古事記』も、人間と天地自然を一体のものとして歌う『万葉集』も世に現れず、天智天皇は儒教を重んじていたから、仏教がこれほどまで国中に浸透していたかどうかは解らない。
和語と漢語の見事な融合。神社と仏寺、神と仏の和らかな共存。かつてひとつ家のなかにあった神棚と仏壇。世界に類のないこの二元の構造こそは、わが国の文化の最大の特徴である。
壬申の乱が、「日本」という国家の原型を生み出すもとになった・・・・・というのは、そういう意味なのである。」