万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

121.巻一・29、30、31:近江の荒れたる都に過る時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌

29番歌

「玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知(ひじろ)の御代(みよ)ゆ(或る云ふ、「宮ゆ」) 生(あ)れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを(或は云ふ、「めしける」) 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え(或は云ふ、「そらみつ大和を置き あをによし 奈良山越えて」)いかさまに 思ほしめせか(或は云ふ、「思ほしけめか」) 天離る 鄙(ひな)にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる(或は云ふ、「霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりにぬる」) ももしきの 大宮所 見れば悲しも(或は云ふ、「見ればさぶしも」)」

反歌

30番歌

「楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ」

31番歌

「楽浪の 志賀の(一に云ふ、「比良の」)大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも「一に云ふ、「逢はむと思へや」」」

<歌意>

29番歌((たまだすき)畝傍の山の橿原の聖代から、お生まれになった神のごとくが(つがの木の)ずっとつぎつぎに天下をお治めになってきたのに、(そらみつ)大和を置いて(あをによし)奈良山を越え、どうお思いになられてか、(あまざかる)鄙(ひな)ではあるけれども(いはばしる)近江の国の(ささなみの)大津の宮に天下をお治めになったという、神である皇祖の宮はここだと聞くけれども、御殿はここだというけれども、春の草が繁っている、霞が立って春の日が霞んでいる(ももしきの)宮跡をみると悲しいことだ)

30番歌

((ささなみの)志賀の唐崎は変わらずにあるが、大宮人の船を待ちかねていることだ)

31番歌

((ささなみの)志賀の大わだは淀んでいても、昔の人にまた逢うことができようか)

上野誠氏が下の本で、「なぜ都を遷すのでしょうか」という問いに答えを記載されていること(頁29)を引用します。

「遷都は現代でいう内閣総理大臣衆議院解散権のようなものだと思うのです。うまくいけば内閣は求心力を持つけれど、時機を間違えると求心力は急速に低下する。

・・・遷都も同じで、・・・

・・・遷都を決めるのは天皇だけ・・・」

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「・・・(巻一の二十九)は、天智天皇が飛鳥を離れて営んだ大津宮(667~672年)のその後の荒廃を嘆いたもので、このなかに「どうして鄙びた近江なんかに都を遷したのか」というくだりがありますね。これをね、天武天皇系統から天智天皇へ向けられた批判と見る説もあるんですが、私はそう思いません。遷都は天皇以外の人間に思いはかることではないと言っているだと思います。」

30番歌と31番歌は犬養 孝氏の取材ノートを記載した本と氏の本から引用します。

大和への遷都、氏の取材ノート、七世紀後半の琵琶湖の汀線、持統天皇近江行幸、二首の歌意などについて記載しています。

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30番歌と31番歌について記載していますが、頁の多くは30番歌です。

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「・・・これは壬申の乱考えなければなりません。・・・で、天武天皇十四年間、・・・次は天武天皇の奥さんの

うの(漢字変化できず)野という方が天皇になられて持統天皇。これは、持統天皇の初年ごろの歌ですね。それで壬申の乱が終わってから十六、七年か、はっきりしたことはわかりませんが、十数年たって後に古都へやってきて、そうして人麻呂が古都を悲しんでいる歌なんです。

・・・大津市坂本町唐崎というところですね。あの芭蕉が「唐崎の 松は花より おぼろにて」と詠んだところ、現在唐崎神社というお宮があります。・・・

この歌の後にもうひとつね、柿本人麻呂反歌を詠んでいる。今度はそれは「志賀の大わだ」」

引用を終わります。

人麻呂の万葉集最初の三首で、集中八十四首詠んでいます。近江の海の人麻呂の歌はほかに巻三・266。

人麻呂の近江の海の歌は、266番歌が名歌の一つとしてよく取り上げられます。永井氏の本は、万葉集にひかれた初めのころ読んだ本です。この本でも266番歌を紹介しています。

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では、この辺で、終わります。