万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

316.巻三・446~453:天平二年庚午の冬の十二月に、太宰帥大伴卿、京に向ひて道に上る時に作る歌五首と故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首

天平二年:730年。旅人は大納言となり奈良の都へ帰った。

以下五首の前に438番歌から440番歌を参照してみてください。

帰京途次の歌(446~450番歌)と故郷の家に帰り作る歌(451~453番歌)を引き出す発端を成しています。

446番歌

訳文

「いとしい妻が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た妻はもはやここにはいないのだ」

書き出し文

「我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」

以下五首は、いずれも「見る」を用い、「見る」効果のなかったことを嘆いている。途上の永久不変のものを「見る」ことは旅の無事を保証することとされていた。

はじめ三首は鞆の浦のむろの木を対象にしている。

むろの木:杜松(ねず)の木か。「いぶき」ともいう。ともにマツ科の常緑樹。霊木として信仰されていたらしい。

常世に:いついつまでも変わらずの意の副詞。むろの木を不老不死の霊木とみる言い方であるとともに、死の悲しみとの対比においてもこう表現したもの。

447番歌

訳文

鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木、この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時ともに見た妻のことが思い出されて、どうしても忘れられないことだろうよ」

書き出し文

鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも」

448番歌

訳文

「海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時お前見たわが妻は今どこにどうしているのかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろか」 

書き出し文

「磯の上に 根延(ねば)ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか」

右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌。

霊木むろの木は、霊界のことを知っているであろうとし、亡妻を求める切なる気持ちから呼びかけている。

449番歌

訳文

「行く時妻とともに見たこの敏馬(みぬめ)の崎を、いま帰り道にただ一人で見ると、ふと涙が滲んでくる」

書き出し文

「妹が来(こ)し 敏馬(みぬめ)の崎を 帰るさに ひとり見れば 涙ぐましも」

前三首の嘆きは、主として亡き妻に向けられていたが、以下敏馬の崎の二首では、一人残されて帰る悲傷に重点が移され、次の帰宅後の作へと連なる。

敏馬の崎:250番歌にも詠まれています。神戸港の東、岩屋町付近。

450番歌

訳文

「行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、一人で通り過ぎる今は、心が悲しみでいっぱいだ」

書き出し文

「行くさには ふたり我が見し この崎を ひとり過ぐれば 心悲しも」

右の二首は、敏馬の崎を過ぐる日に作る歌。

敏馬の崎到着時の前歌に対し、敏馬の崎を後にすす時の歌。

故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首(451番歌~453番歌)

451番歌

訳文

「こうして今帰って来たもののやっぱり、妻もいないがらんとした家は、旅の苦しさにましてなんとも無性にやるせない」

書き出し文

「人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり

440番歌に照応する歌。出発前九州で思いやった嘆きが、帰宅直後まさしく事実となった悲嘆を述べている。

旅にまさりて:本来ならいるはずの妻がいない家は、異郷筑紫での暮らしにまさって、の意。

452番歌

訳文「かって妻と二人、丹精こめて作ったわが家の庭、この庭は、今はすっかり木立が高く生い茂ってしまった」

書き出し文
「妹として ふたり作りし わが山斎(しま)は 木高く茂く なりにけるかも」

前歌の「家」全体から「山斎」へと焦点を絞っている。

山斎:泉水や築山などのある庭園。

453番歌

訳文

「わが妻が植えた梅の木をながめるたびに、胸がつまって、とめどなく涙が流れる」

書き出し文

「我妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る」

前歌の「山斎」からさらに遺愛の「梅の木」に焦点を絞り、将来かけてやむことなき追慕の情をもって右三首を歌い納め、同時に亡妻十一首の総括としている。

引用した本です。

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今朝の積雪は、2㎝ほどで朝食前に雪かきをしました。

冷え込みました、冬に少し逆戻りかな。

では、今日はこの辺で。