374.巻四・587~610の内の603~610の八首:笠郎女、大伴宿禰家持に贈る歌二十四首(3-3」)
五群
603番歌
訳文
「恋の物思いで人が死ぬものであったとしたら、千度も繰り返して私は死んだことだろう」
書き出し文
「思ひにし 死にするものに あらませば 千たびぞ我れは 死にかへらまし」
恋の歌に多い「恋ひ死ぬ」という発想を踏まえて歌ったもの。類歌2390番歌。
604番歌
訳文
「剣の大刀を身に添えて持った夢を見た。いったいこれは何の前兆なのでしょう。きっと男らしいあの方にお逢いできるからでしょう」
書き出し文
「剣大刀(つるぎたち) 身に取り添ふと 夢に見つ 何の兆(さが)ぞも 君に逢はむため」
もっとも男性的な持ち物と考えられていた「剣大刀」に寄せて、夢に望みをつないで喜ぶ歌。
605番歌
訳文
「広い天地を支配される神々にもしも道理がなければ、その時こそ、こんなに慕っているあの方に逢えぬまま。私は焦がれ死んでしまうことになろうが・・・・・」
書き出し文
「天地の 神に理 なくはこそ 我が思ふ君に 逢はずしにせめ」
前歌の「夢」を神のなせるわざと見、だから逢わずに死ぬはずがないと歌ったもの。603番歌の「死ぬ」とも響きあ合っている。
606番歌
訳文
「私もこれほど思っている。あの人も私を忘れてはだめ。多奈和丹 海岸に吹きつける風のように、やむことなく思いつづけてくれないとだめ」
書き出し文
「我れも思ふ 人もな忘れ 多奈和丹 浦吹く風の やむ時なかれ」
天地の神の支配する道理に頼みをかけて、やや高飛車に歌った歌。相手を三人称でさしていながら、禁止を重ねたところにもその態度が表れている。
多奈和丹:未詳。いろいろな訓があるようです。
六群
607番歌
訳文
「皆の者、寝静まれ、という亥の刻の鐘を打つのが聞こえるが、あなたを思うと眠ろうにも眠れません」
書き出し文
「皆人を 寝よとの鐘は 打つなれど 君をし思へば 寐(い)ねかてぬかも」
悩みを持たない世の常の人とくらべて、ひとり、恋にもだえる気持を歌った歌。
608番歌
訳文
「私を思ってもくれぬ人を思うのは、大寺の餓鬼像の後ろから地に額ずいて拝むようなものだ」
書き出し文
「相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後方(しりへ)に 額つくごとし」
極端な譬喩を重ねて自嘲の姿勢を見せた戯歌。
餓鬼の後方:引用した本を参照。背後から拝むことは、二重にかいのないことである。なお、額づくは、額を地につける、最も丁寧な礼拝の仕方。
609番歌
訳文
「ついぞ思ってもみなかった。傷心を抱いて、また昔住んだ里に帰ることになろうとは」
書き出し文
「心ゆも 我は思はずき またさらに 我が故郷に 帰り来(こ)むとは」
近くにいて逢えないことを嘆いた第四群三首目の601番歌に対して、第六群のこの歌から、遠く離れて逢えない嘆きを歌っている。直接には、同じ群の607~8番歌の都での嘆きを故郷での嘆きに転じている。
610番歌
訳文
「近くにおれば逢えなくてもまだしも堪えられるが、いよいよ遠くにあなたと離れてしまうことになれば、とても生きてはいられないでしょう」
書き出し文
「近くあれば 見ぬどもあるを いや遠く 君がいまさば 有りかつましに」
右の二首は、相別れて後に、さらに来贈(おく)る。
「近」と「遠」とを対比する形で全体を歌い納めた。
家持と笠郎女とが、最後には遠く離れたことを注の形でしめしたものか。
次回の記載は、大伴宿禰家持が609、610番歌に答える形とった二首(611、612番歌)です。
引用した本です。
では、今日はこの辺で。