万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

113.巻一・17、18:額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王(ゐのへのおほきみ)の即ち和(こた)ふる歌(19番歌)

17番歌

「味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隅(くま)い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく雲の 隠(かく)さふべしや」

18番歌(反歌

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠

さふべしや」

<歌意>

(ああ三輪山よ。奈良山の山の間に隠れてしまうまで、いくつもの道の角を曲がるまで、お前をじっくりと見てゆきたい。何度でも眺めたいと思うのに、無情にも雲がお前を隠そうとしている。そんなことをして、よいものだろうか)

(なつかしい三輪山を、なぜ隠そうとするのか雲よ。せめて雲だけでにでも、やさしい思いやりがあってほしい。どうか、隠さないでおくれ、雲よ)

杉本苑子氏の本から以下に引用します。

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六六一年七月、斉明天皇が雄図むなしく朝倉宮(福岡県朝倉町)で没すると、ただちに長男の中大兄皇子が称制(即位の式をあげずに、天皇としての政務をとること)し、朝鮮出兵の軍政を継続しました。ところが、六六三年八月に錦江南口の白村江で、日本・百済連合軍は新羅と唐の連合軍に大敗してしまいます。

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(図説万葉集から)

これから数年の間、中大兄皇子は、内にはかって自らが「大化改新」を経て断行した改新政治を守り、外には国土防衛の体制を固めるという、困難な道を強いられます(新羅や唐の脅威がなくなっても内政の遂行に、脅威があるようにして内政を遂行したようです)。

六六七年三月、敗戦の混乱と、斉明女帝急逝後の政治危機をどうにか乗り切った中大兄皇子は、大和(後岡本本宮)から近江(近江大津宮)への遷都を断行しますが、その際、額田王が作った長歌と短歌です。

(最初に記載した歌と歌意が本では続きます)

この遷都については、中大兄皇子にしてみれば土地と豪族の複雑な絡み合い、利害関係のくされ縁を断ち切って、新政への第一歩を踏み出したいという意図もあり、また、都を肥沃ですぐにれた稲作の生産地へ、さらには交通の要衛へ移したいという現実的な判断もあったかもしれません。しかし、「日本書記」に「天下の百姓(おほみたから)、都遷することを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し」と記されているとおり、大和に住みなれた貴族豪族や、都造営の負担がのしかかる庶民の気持を無視した強引なものでした。旧都をなつかしみ、遠ざかる三輪山の山容を惜しむ右(上)の歌にも、その気分は色濃く反映しています。そして額田王の心の底には、そんな遷都を実施した中大兄皇子への嫌悪が疼きはじめていたはずです。額田王大海人皇子との仲を復活させたのは、この前後のことではないでしょうか。

と、この項を終えています。

では、杉本氏の本の引用でこの句の記載を終えたいと思います。

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追記:2017年7月2日:下の本の「三輪山惜別」を(頁133から135)参照のこと

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なお、犬養 孝氏の「わたしの萬葉百首」の第四首です。「・・・奈良山を越えましたならば、奈良県の方は見えなくなるでしょう。・・・三輪山を振り向いてうたったうたです。・・・三輪山という山は、大和の中で一番親交の厚い山。山そのもが神、というようなわけですね。大和中じゅうの人が一番尊敬する、崇拝する山です。神です。・・・ただ振り返って詠んだんじゃなくて、額田王っていう方は、神の祭をすることのできる人です。そこで神祭りをして、ふるさとにさよならを告げるときの歌なんでしょう。・・・」