323.巻三・481~483:死にし妻を悲傷しびて、高橋朝臣が作る歌一首あわせて短歌
481番歌
訳文
「衣の袖を互いにさし交して寄り添い寝た黒髪が、すっかり白くなってしまうまで、二人の仲はいつも新しい気持でいようね、けっして絶やすまい、妻よ、と互いに誓い合った約束は果さず、そう思い決めた気持は遂げずに、妻は交しあった私の袖をふりきって、馴れ親しんだ家をもあとにして、乳のみ児の泣くのも置き去りにして、朝霧に包まれるように姿も薄れながら、山背の相楽山(やましろのさがらかやま)の山あいに行き隠れてしまったので、何といってよいやら何をしてよいやらわからぬままに、わが妻と睦じく寝た寝屋にいて、朝になると外に立って妻を偲び、夕になると中にうずくまって嘆きつづけ、わきにかかえた赤子が泣くたびに、男だというのに負(おぶ)ったり抱いたりしてあやし、しまいにはただ声をあげて泣きながら妻を恋い焦れるのだが、何の効もないこととて、ものも言ってくれない山ではあるけれど、わが妻が籠ってしまったあの山を、せめてもの形見と懐かしむばかりだ」
書き出し文
「白栲の 袖さし交へて 靡き寝し 我が黒髪の ま白髪に なりなむ極み 新世に ともにあらむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし ことは果たさず 思へりし 心は遂げず 白栲の 手本を別れ にきびにし 家ゆも出でて みどり子の 泣くをも置きて 朝霧の おほになりつ 山背の 相楽山の 山の際に 行き過ぎぬれば 言はむすべ 為むすべ知らに 我妹子と さ寝し妻屋に 朝には 出で立ち偲び 夕には 入り居嘆かひ 脇ばさむ 子の泣くごとに 男じもの 負ひみ抱きみ 朝鳥の 哭(ね)のみ泣きつつ 恋ふれども 験をなみと 言とはぬ ものにはあれど 我妹子が 入りにし山を よすかとぞ思ふ」
「我妹子とさ寝し妻屋に」以下十数句は、人麻呂の亡妻挽歌(210番歌)とほとんど同じである。天平時代には亡妻挽歌にみどり子を歌いこむのが習いであったらしい。467番歌参照。
新世:日々新鮮な夫婦の仲。「世」は男女の仲の意。
妻屋:離れ屋
朝鳥の:「哭(ね)に泣く」の枕詞。
482番歌
訳文
「無常ではないのはこの世の定めなのだから、これまでは無縁なものと見ていたこの山を、今は妻の形見と思わねばならぬというのか」
書き出し文
「うつせみの 世のことにあれば 外に見し 山をぞ今は よすかと思はむ」
長歌の末尾を承けて、静かな悲しみに転じている。類想歌474番歌。
483番歌
訳文
「この先、声をあげてただ泣き暮らしてゆくことになるのか。恋しいわが妻に、もう二度とふたたび逢うてだてもなくて」
書き出し文
「朝鳥の 哭のみし泣かむ 我が妹子に 今またさらに 逢ふよしをなみ」
右の三首は、七月の二十日に、高橋朝臣が作る歌。名字いまだ審らかにあらず。ただし奉膳(かしはで)の男子といふ。
高橋:景行天皇の東国巡幸の折に大蛤を献じた功により、「膳臣(かしわでのみ)」の姓を賜り、天武十二年(683)さらに高橋朝臣を賜った。代々天皇の膳部をつかさどる家柄。
男子:奉膳である男子、奉膳の息子、の両説がある。前者とすれば高橋国足か。
この歌が巻三の最後の歌です。
引用した本です。
なお、巻四は「相聞」三百九首(長歌七・短歌三百一・旋頭歌一)。「相聞」部のみからなる。巻三の各部立てを併せたよりも大部であり、歌題としての恋の定着とひろがりを見せる。
題詞には不明朗な部分があり、巻頭歌(484番歌)の題詞にいう「難波天皇」は、仁徳天皇・孝徳天皇の両方の可能性がある。ただし、巻一・二の例より類推すれば、巻頭歌としてはより古い仁徳朝の歌と受けとめられることで意義を持っただろう。
つづく三首の長反歌(485~487番歌)の作者とされる「崗本天皇」も、舒明天皇・皇極天皇のいずれを指すか決めがたい。
これらに七世紀~八世紀初頭に位置づけられる歌人の歌三十三首がつづき、後に天平十六(744)年頃に至る奈良時代の作品を載せるという。
引用した本です。
今朝は積雪ゼロで、のんびりした朝でした。
では、今日はこの辺で。