万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

119.巻一・27:天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌

天武天皇が、吉野の宮滝付近にあった離宮

27番歌

「淑(よ)き人の 良しとよく見て 良しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見」

<歌意>

(昔の淑き人が、よいと所だと、よく見て、よいと言ったこの吉野を、よく見よ。今の良き人よ、よく見よ)

参考にした本

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坂本信幸氏の記載を引用します。 

万葉集」の吉野は、主として、吉野離宮のあった宮滝を中心とした一帯をさす。吉野は応神・雄略・斉明・天武・持統・文武・元正・聖武の諸天皇行幸があったところであり、宮滝付近にあった離宮は、南に三船山や象山を控え、上流の菜摘から吉野川が屈曲して流れてきたところで、河内をなす地形である。宮滝遺構の発掘調査により、離宮後は一期が斉明朝、二期が天武・持統朝、三期が元正・聖武朝の遺構であることが判明している。

この歌は、題詞・左注によると、天武八年(679)五月五日に吉野に行幸した時の、天武天皇の御製歌であるという。日本書記によると、五月五日に吉野に到着、六日に、天皇・皇后と、草壁・大津・高市・河島・忍壁・芝基(志貴)の六皇子との団結の盟約(吉野盟約)が結ばれ、七日には還御となった。

吉野は壬申の乱の起点となった土地であり、壬申の乱以後、天武朝の聖地であった。五月五日は陽数(奇数)の重なる端午の吉日。その日を選んで聖地吉野に行幸したのは、盟約を結ぶことを目的とするものであった。

「日本書記」によると、天武天皇の「私は今日、お前たちと共にこの吉野の聖なる庭で盟約を結び、千年の後まで事が起こらないようにしようと思う。どうか」という詔に応えて、皇子達は共に互いに助け合って逆らわないことを盟約しし、天武天皇も「我が子供たちはそれぞれ異なった母から生まれている。しかし、これから同母の兄弟のように等しく慈しもう」と言って、六皇子を抱いて盟ったという。思えば、天武自身が骨肉の争を経て即位した天皇であった。自分が死んだ後、皇子たちが同じ苦しみを味わうことのないようにと、行く末の政治の安泰を計ったのであろう。

しかし、その願いも空しく、天武が崩御するや、大津皇子の謀反が発覚、大津は訳語田(おさた)の舎(いえ)で処刑されることとなったことは、98頁、154頁に述べたとおりである。この歌は、まず声を出して歌ってほしい。

ヨキーヨシーヨクーヨシーヨシーヨクーヨキーヨク、とヨ音が繰り返さる中に、ミテーミヨーミ、とミ音が繰り返され言葉遊びのようなリズムである。

・・・中略・・・

原文で読むことの大切さがこの歌によって知られる。

この歌は「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見」と、形容詞「よし」が繰り返され、さらに「見る」ことが強調されているところに特徴があるが、原文では、 

淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

 と、その形容詞「よし」を、「淑」「良」「吉」「好」「芳」「良」「四来」と、異なった文字で表記している(地名芳野も、土地を讃美する意で形容詞「よし」の意をふくむ)。

・・・中国の古典とのかかわりを記述・・・

・・・江戸時代の万葉集の研究なども紹介・・・

壬申の乱勝利の原点たる聖地吉野をよく見、理想的な政治を行う君子たる天武天皇をよく見ることによって、皇后と六皇子との盟約がなされたのである。この歌の前には(26番歌、118.に記載)、その壬申の乱に関わる天武天皇の吉野行きうたがある。ここで引用終わりです。

「はげ」とか「ぼけ」とか品のない暴言を声高に激情のまま発する人ではないですね。

万葉人は現代人より教養があったかな。

デジカメも録音機もなかった時代に優れた歌を残しています。万葉集は世界に誇る日本最古の世界一の歌集ですね。壬申の乱の日本史的重要性を指摘した本です。

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世界一の歌集と記載した本↓

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奈良県の十津川の方々が、明治初期に北海道の新十津川町に入植する時(まだ新十津川町はない)、送る方も、送られる方も歌で、その歌が今も残る。奈良から神戸までは徒歩で、船で北海道小樽へ。思いがひしひしと伝わってくる歌です。では、27番歌を声に出して読んで、そろそろ午前四時なので、この辺で。