440.巻五・882・883:子等を思う歌一首あわせて序と反歌一首(二の一:短歌は次回記載)
子等の:等は複数
序の訳文
「釈尊が御口ずから説かれるのは、「等しく衆生を思うことは我が子羅睺羅(らごら)を思うのと同じだ」と。まだ説かれるには、「愛執は子に勝るものはない」と。無上の大聖人でさえも、なおかつこのように子への愛着に執(とら)われる心をお持ちである。ましてや、俗世の凡人たるもの、誰が子を愛さないでいられようか」
序の書き下し文は省略します。
882番歌
訳文
「瓜を食べると子供が思われる。栗を食べるとそれにもまして偲ばれる。こんなにかわいい子供というものは、いったいどういう宿縁でどこから我が子として生まれて来たものなのであろうか。そのそいつがやたらに眼前にちらついて安眠をさせてくれない」
書き下し文
「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐(やすい)し寝さぬ」
子に執われることが煩悩であることを十分知りながらも、憶良は子へ執心を歌わずにはいられなかった。
いづくより 来りしものぞ:仏典による表現。
まなかひ:「眼の交(かひ)」で眼前。
もとな:「元無し」で、むやみに。
寝さぬ:「寝さ」は他動詞の動詞「寝す」の未然形。「ぬ」は打消の助動詞の古い終止形。
志賀直哉旧居の画像を貼り付けます。
部屋などの画像を撮ったと思っていたのですが、見つけれませんでした。
次回は新薬師寺を予定しています。
もうじき午前五時です。
では、今日はこの辺で。