48.心に響く日本語(2)万葉集で詠まれている「玉響」
玉響は集中一首詠まれています。
たまゆらと訓み、ほんのしばらくの間という意であるという説がある。
ほかに「たまかぎる」、「たまさかに」、「まさやかに」、「さやかにも」、「たまあへえば」などと訓まれているようです。
たまは「玉」で、「響」をどう訓むかのようです。
巻十一・二三九一の歌(柿本野人麻呂歌集)です。
原文は「玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物」で、訓読として「たまゆらに きのうゆうべに みしものを けふのあしたは こふべきものか」を当てるようです。
11文字31音というのは、万葉集の一番古い表記形態とのこと。
意味は、「昨夜の、ほんのわずかお会いしたのに、お帰りなると、もう今朝になって恋しくなるなんてことがあっていいものでしょうか」でしょうか。
また、中西 進氏の万葉集全訳注原文付では「魂合いをして昨日の夜は逢えたものを、もう今日の朝はこんなに恋に苦しむべきものなのか」です。
「たまゆら」は、川端康成氏や曽野綾子氏の小説、テレビドラマ、楽曲、ゲーム名、テレビアニメ名、企業グループ名、老人ホーム名、映画名(たまゆらの女:観ていません)などに使われているほど、親しまれた言葉なのでしょう。
「玉響」は美しい翡翠や瑠璃(ガラスの古名)などが触れ合ってかすかな音をたてるところから生まれた言葉で、転じて「ほんのしばしの間」、「かすかな」、「あるかないか」という意味にも用いられているとのこと。
真珠は「玉響」の玉ではないと思うのです。
翡翠や瑠璃などの鉱物と思うのです。
もし、お時間がありましたら、左のリンクのBIVALVESの万葉集の貝>歌ことば「たま」>植芝 宏氏の「万葉散歩」>雑記>枕詞>「たまかぎる」を覘いてみてください。
たまゆら、心に響くかどうかわかりませんが、どうにか心に響く日本語(2)として記載できました。
「心に響かないで記載するのはどうかな」
万葉集は奥が深いですね。
「たまゆら考」として書き出したら一冊の本になるのではないかと思われました。
後の新古今集、方丈記、江戸時代や明治時代の学者の諸説などなど、現代までにいろんな説が層状に積み重なっているのでしょう。
植芝氏は、「響」は普通、「トヨム」とか「トドロニ」とか「ナル(響神)」とか訓み、通例にしたがえば「玉響」は「タマトヨム」と訓むべきなのだが・・・?と記載しています。
「たまとよむ女」より「たまゆらの女」のほうがいいかな。
正しい言葉とか心に響く言葉とか心地よい言葉とかは、時代とともに変化するのかな。