124.巻一・35:背の山を越ゆる時に、阿閉皇女(あへのひめみこ)の作らす歌
38番歌
「これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀伊道(きぢ)にありといふ 名に負ふ背の山」
<歌意>
(これがまあ 大和で常々私が見たいと思っていた、紀州道にあるという有名な背の山なのか)
(紀州路にあるとしてかねて大和で心ひかれていた背の山。これこそ、その名にそむかぬ背の山よ)
背の山:和歌山県伊都郡かつらぎ町。大和から紀伊へ越える道にあるという。聖なる妹山に対して想定された山。ここは紀の川をはさんで下流から見た時に一対となる。大化二年の詔に山の背以北を畿内とするとあり、これを越えると畿外なることが作歌の一因にあるという。
「・・・といふ」、伝聞(過去)が次の「名に負ふ」(現在)と対応。
作歌の時期は不明であるが、持統四年か。とすると夫草壁皇子薨去の翌年、歌意にかなうとか。元明天皇時に三十歳のようです。
阿閉皇女:天智天皇の皇女。草壁皇子の妃となり、文武天皇を生む。文武天皇崩御後即位、四十三代元明天皇となる。養老五年(721)崩御。六十一歳。
引用した本は、下の二冊です。この35番歌を記載した本がほかにないので、歌に関する記載はここまでです。
明日(7月14日)から16日まで不在のため、次回記載は7月17日を予定しています。