494.巻六・907~912:養老七年癸亥の夏の離宮に幸す時に、笠朝臣金村が作る歌一首あわせて短歌(二の二)
908番歌
訳文
「毎年毎年こうして見たいものだ。ここ吉野の清らかな河内の渦巻き流れる白波を」
書き出し文
「年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内の たぎつ白波」
909番歌
訳文
「山が高いので、白木綿花(しらゆうばな)となってほとばしり落ちる滝の河内は、見ても見ても見飽きることがない」
書き出し文
「山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 滝の河内は 見れど飽かぬかも」
白波の美しさを、神聖な白木綿花に見立てて讃えた歌。912、1107、1736、3238番歌参照。
結句の讃辞は人麻呂の36、37番歌の句を踏襲したもの。
或本の反歌に日はく
或本:作者の初案であろう。908~909番歌の方が、讃歌としてのまとまりがある。
910番歌
訳文
「国つ神の御威光のせいで誰もが見たいと心引かれるのであろうか。吉野の滝の河内は、見ても見ても見飽きることがない」
書き出し文
「神からか 見が欲しからむ み吉野の 滝の河内は 見れど飽かぬかも」
結句の讃辞は人麻呂の36、37番歌の句を踏襲したもの。
911番歌
訳文
「吉野の秋津の川が万代までも絶えないように、絶えることなくまたやって来てこの滝の河内を見よう」
書き出し文
「み吉野の 秋津の川の 万代の 絶ゆることなく またかへり見む」
人麻呂の37番歌を踏まえた歌。
912番歌
訳文
「泊瀬女(はつせめ)の作るあの神聖な木綿が、ここ吉野の滝の水泡(みなわ)となって咲いているではないか」
書き出し文
「泊瀬女の 造る木綿花(ゆふばな) み吉野の 滝の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや」
人麻呂の作を踏まえた前二首に対して、作者の発想で吉野を讃えた歌。
木綿花を作る女性が歌われているが、行幸従駕の儀礼歌に旅先の女性への関心を歌い込む享楽的傾向は、金村の作にしばしば見えるものである。
では、今日はこの辺で。