万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

132.巻一・52、53:藤原の宮の御井の歌

52番歌

訳文

「あまねく天下を支配せられるわが大君、高く天上を照らし給う日の神の御子なる天皇、その天皇が藤井が原に宮殿を創建され、埴安の池の堤にしかと出て立ってご覧になると、この大和の青々とした香具山は、東面の御門に、いかのも春山らしく、茂り立っている。畝傍の、この瑞々しい山は、西面の御門に、端山らしく、どっか鎮座している。耳成の、青菅茂る青々しい山は、ふさわしくも、北面の御門に神々しく立っている。名も妙なる吉野の山は、南面の御門のはるか向う、雲の彼方に連なっている。このよき山々に守られた、高くそびえる大宮殿、天空にそびえる大宮殿の水こそは、永遠に尽きはすまい。この御井の真清水は」

書き出し文

「やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 荒栲(あらたへ)の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯(よこ)の 大きな御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面(せと)の 大きな御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居にぞ 遠くにありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井の清水」

53番歌

訳文

「生まれつき藤原の大宮に宮仕えする者としてこの世に生まれて来たおとめたち、このおとめたちは羨ましい限りだ」

書き出し文

「藤原の 大宮仕へ 生(あ)れ付くや をとめがともは 羨(とも)しきろかも」

左注に「右の歌は、作者いまだ詳(つばひ)らかにあらず」と記載知れている。

記載に引用し、参考にした本です。

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52番歌は、御井の永遠を願う予祝歌だが、国見歌を踏まえた天皇讃歌の発想を基盤に持っているという。山を歌ったのは、山が水を司るという考えによるという。

53番歌は、大宮の御井に仕えるおとめへの羨望の念を述べることによって大宮の無窮を讃える歌。結句の「ともしき」は羨ましい意から讃嘆を表す表現となる。新宮に仕える女性たちを描写し、そのきらびやかな様子を通して、藤原宮の未来を予祝している。

巻頭からこの歌まで、「原萬葉集」としてのまとまりがある。巻一は雑歌84首。巻一・1から53番歌までは、題詞・左注の書式などが54番歌以降とは異なり、最も原型的な姿をとどめる部分である。

藤原宮は、694年から710年までの間、日本の首都であった。

持統天皇は、およそ百年の間、政治の中心であった明日香を捨て去り、藤原遷都を敢行した。その藤原宮を言祝ぐ歌でもある。

また、藤原遷都後七年を経た七〇一年には、「大宝律令」が完成する。「日本」という国号もこの時に定められた可能性が高い。

・・・七〇二年の遣唐使の派遣による中国のの歴史書には、「日本」を国名として用いている旨が記載されている。・・・

新宮への遷都と、律令制の完成は、亡夫・天武天皇の遺志であった。ここに国家・日本が誕生したのである。・・・日本という国名をこのころ採用し、国名は現在に至るまで使われている。縄文時代まで遡って、日本民族や国の成り立ちを考察する必要があると考えます。

下の本を読み終えて。

加藤謙吉氏の「渡来氏族の謎」(祥伝社新書510)

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では、今日はこの辺で。