万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

127.巻一・43:当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)が妻(め)の作る歌

43番歌

訳文

「あのお方はどこを行っているのでしょう。(沖っ藻の)名張の山を今日越えているのでしょうか」

書き出し文

「吾背子(わがせこ)は いづく行(ゆ)くらむ 奥(おき)つ藻の 名張(なばり)の山を 今日(けふ)か越(こ)ゆらむ」

この歌を読むにあたり手持ちの数少ない本の中で、犬養氏の「わたしの萬葉百首」上巻を読み、以下に引用しました。

本の一番最初に、はじめの前に、「わたしの萬葉百首」のいわれが記載されていて、「・・・日本短波放送で、昭和五十九年一月六日から、同年十二月二十八日まで、放送することになり、わたくしが、全百首を、どなたにもわかるように、説いてみたのが、本書ということになります。・・・原文は、放送のままを、甲南女子大学の教え子仁賀裕子さんが文におこしたものです。・・・」

では、引用します。本の第十首目の歌です。

10 名張の山

それでは今度は、いまの三重県名張の歌です。

・・・上の書き出し文が記載されています・・・

この歌は、作者は当麻真人麻呂という人の奥さんの歌なんです。その作られた事情は、持統天皇の六年、持統女帝が伊勢の方へ行幸される三月三日、お出かけになる。そうしたら家来の三輪高市麻呂という人が天皇様に、いまは農村の忙しいときですよ、人民が迷惑するからおやめなさいと、おいさめする。ところが、持統さん、どうしても行くと言って、三月六日、とうとう出かけられた。

で、三輪高市麻呂は冠を投げうって、宮廷を去ったという、有名な話が「日本書記」に出ております。

持統天皇の六年は西暦六九二年ですね。持統さんは伊勢から志摩の方にいらした。その行幸に当麻真人麻呂というのが従って行ったんですね。

で、大和に残っている妻が夫の身の上を思って詠んだ歌。いまごろはどこを歩いているのだろうか。「奥つ藻の」というのは「名張」の枕詞。奥の藻は海の深いところにあるでしょう。名張っていうのは隠(なば)るというとうい意味。隠れることを古代に隠(なば)ると言った。で、名張、いま現在三重県名張市、あそこは鈴鹿山脈の手前の西側の山と山の間のところです。だから大和の人から言えば、まさに、「奥つ藻の名張」でしょう。山また山の奥の名張、そこを「今日か越ゆらむ」今日あたり越えているかしら。どうしているだろう。夫を思う愛情の波ですね。それを二回に、二句目と五句目に繰り返して「いづく行くらむ」「今日か越ゆらむ」こうやって切なく夫の苦労を思っている。自問自答しているんですね。

どうだろうか。越えてるかしら。あぁいまごろ越えているだろうなぁと、無事を祈り夫への愛情を本当にこの形で、二回の波の形で訴えて案じている歌ですね。これもすばらしい歌だ。それではうたってみましょう。この奥つ藻の名張を思いながら、山また山の名張を思いながら。

「吾背子は いづく行くらむ 奥つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ」

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では、今日はこの辺で。

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上の本も訳文で引用しました。また、「飛鳥に都があった頃、伊勢国府へは畿内の東限でる名張を越えて向かっていた。近鉄大阪線で大阪から名古屋に向かうルート、すなわち、奈良県桜井市三輪山の南の泊瀬峡谷を東行する道である」も引用します。