484.巻五・沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)山上憶良(八の八)
沈痾自哀文(八の八)の訳文
「そもそも生きとし生ける者、悉く限りある身でありながら、なべて窮まり無き命を追い求めぬ者はない。こういうわけで、道士や方士たちが自ら丹経を背負って名山に入り薬を調合するのは、命を培い心を楽しませて長生を求めるためなのである。抱朴子に「神農が「百病も治らないのにどうして長生することができよう」と言った」とある。帛公も「生は好もしきもの、死は忌まわしきもの」と言っている。もし不幸にして長生することができないならば、やっぱり生涯病患のない者こそ、大きな幸せというべきであろうか。今、私は、病に悩まされ、臥したり座ったりすることもままにならない。どうにもこうにもなすすべを知らない。不幸の最たるものが、すべてこの私に集まっている。「人が切に願えば天は聞き入れる」という。これがもし本当のことであるなら、乞い願わくは、ただちにこの病いを取り除き、何とか平生の身になりたいものだ。この願いをもつ者が、鼠を死人に譬えたりして、何とも恥ずかしくてならない<すでに上に述べた>。」
惑乱する苦悩は、憶良に綴ることを求めた。三部作は憶良生涯の知見と苦悩の総ざらいであった。
引用した本です。
では、今日はこの辺で。