万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

474.巻五・886~891:熊疑のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首併せて序 筑前国司山上憶良(三の三:887~891番歌)

886~891番歌は、山上憶良が熊疑になりきって詠んだ歌です。

887番歌

訳文

「母上の顔を見ることもできないで、暗い暗い心のまま、私はいったいどちらを向いてお別れして行くというのか」

書き下し文

「たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 我(あ)が別(わか)るらむ」

本当は故郷の方を向きたいのに、意に反して冥界に赴かなければならない悲しみを述べた歌。

888番歌

訳文

「見たこともない果て知れぬ道だというのに、おぼつかないままどのようにして行ったらよいのか。食糧も持たずに。<乾飯(ほしいい)も持たずに>」

書き下し文

「常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ 糧(かりて)はなしに」

一には「干飯(かれひ)はなしに」といふ

前歌を承けて冥界への暗い旅に目を向けている。以下四首の異伝は憶良の初案らしい。長歌も同じ。

889番歌

訳文

「家にいて、母上が介抱して下さったなら、この悲しみも和(やわ)らげられるだろうに。たとえ死ぬなら死ぬにしても。<ついには死ぬにしても>」

書き下し文

「家にありて 母がとり見ば 慰(なぐさ)むる 心はあらまし 死なば死ぬとも」

一には「後に死ぬとも」といふ

890番歌

訳文

「旅立った日を指折り数えながら、今日こそは今日こそはと私の帰りを待っておられるであろう父上母上は、ああ。<母上のいたわしさよ>」

書き下し文

「出でて行きし 日を数えへつつ 今日今日と 我を待たすらむ 父母らはも」

一には「母が悲しさ」といふ

母に焦点を向けた前三首に対し、以下、父母を歌う。

891番歌

訳文

「この世では二度と逢えない父上母上を後に残して、私はとこしえに別れ去らねばならぬのか。<互いに別れ別れになってしまわねばならぬのか>」

書き下し文

「一世(ひとよ)には ふたたび見えぬ 父母を 置きてや長く 我が別れなむ」

一には「相別れなむ」といふ

以上熊疑歌は、死者が一貫して親を思う点に特色がある。これは憶良の儒教倫理が下地にあろうが、他に子に先立たれた悲通な体験もあったかもしれない。

引用した本です。

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春日大社の画像を貼り付けます。

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では、今日はこの辺で。

なお、次回の記載は2018年9月19日を予定しています。