万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

439.巻五・800・801:神亀五年七月二十一日 筑前国守山上憶良 上 感情を反(かへ)さしむ歌一首あわせて序、反歌一首

上:奉る、の意。旅人の793番歌に刺戟され、漢詩文と日本挽歌とを漢倭の連作に仕立て奉ったもので、ともに旅人になりきって詠んでいる。

感情を反さしむ歌一首:煩悩にまみれた心を直させる歌。805番歌の左注は、この作まで及ぶ。

序の訳文

「ある人がいて、父母をを敬うことを知りながら孝養を尽くすことを忘れ、しかも妻子の扶養をも意に介せず、脱ぎ捨てた履物よりも軽んじている。そして、倍俗先生と自称している。その意気青雲のかかる天空の上に舞う観があるが、身体は依然としてこの俗世の塵の中にある。行を修め道を得た仏聖の証がまだあるわけでもなく、多分これは戸籍を脱して山野に逃亡する民なのであろう。

そこで、三綱(さんこう)の道を指し示し、さらに改めて五教の道を諭すべく、こんな倭歌を贈って、その惑いを直させることにする。その歌に言う」

(書き下し文は、省略します)

800番歌

訳文

「父母を見ると尊いし、妻子を見るといとおしくかわいいものだ。世の中はそれが当然で、恩愛の絆は黐(もち)にかかった鳥のように離れがたく立ち切れぬものなのだ。行く末どうなるともわからぬ有情世間のわれらなのだから。それなのに、穴空き沓を脱ぎ捨てるように父母妻子を放ったらかしてどこかへ行くという人は、非情の石や木から生まれ出た人なのか。そなたは何者なのか、名告りたまえ。天へ行ったならそなたの思いどおりにするもいいが、この地上なら大君がいらっしゃる。この月日の照らす下は、天雲のたなびく果て、蟇(ひきがえる)の這い廻る果てまで、大君の治められる秀れた国なのだ。あれこれと思いどおりにするもよいが、物の道理は私の言うとおりなのでではあるまいか」

書き下し文

「父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)を 脱ぎ棄(つ)るごとく 踏み脱きて 行くちふふ人は 石木(いはき)より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか」

倍俗先生は道教の「真」にかぶれた人。対する憶良は儒教の「善」を追う。が、憶良は倍俗先生に人間的な理解を寄せてもいる。憶良は、ともすれば「真」と「善」との相克に悩んだのであろう。

反歌

801番歌

訳文

「天への道のりは遠いのだ。私の言う道理を認めて、すなおに家に帰って家業に励みなさい」

書き下し文

「ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に帰りて 業(なり)を為(し)まさに」

天道は遠し:長歌の「天へ行かば汝がまにまに」が不可能なことを示す。近ければともかく、という気持が裏にある。

業(なり)を為(し)まさに:農耕を勧める国守の立場を示す。「に」は「ね」と同じく希求の助詞。

引用した本です。

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春日大社から高畑・志賀直哉旧居への画像を貼り付けます。

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次回に志賀直哉旧居の画像を貼り付けます。

午前五時です、今日はこの辺で。