万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

150.巻二・95:内大臣藤原卿、采女安見児を娶る時に作る歌一首

藤原鎌足は、万葉集にこの歌と94番歌の二首を収めています。

杉本氏の本を引用します。

第2章の鏡王女の第5項中臣家の家刀自です。

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「鏡王女は、中臣(藤原)家の家事を切り盛りする家刀自(いえとじ)としての生涯をまっとうしました。鎌足は彼女を大事にしたようですが、子はうまれず、それどころか鎌足が他の女性に産ませた子を育てることになりました。藤原家を継いだ不比等五百重娘(いおえのいらつめ:のち天武妃)、氷上娘(ひがみのいらつめ:のち天武妃)らが、いわば彼女の継子です。また、こんなこともありました」

95番歌

訳文

「ああ、おれは、とうとう安見児を自分のものにしたぞ。だれもが躍起になりながら、陥落させることのできなかった安見児を、おれはとうとう手に入れたぞ」

書き出し文

「われはもや 安見児得たり 皆人の 得難(えがて)にすとふ 安見児得たり」

天智天皇から若い采女の安見児を下賜されたとき、鎌足が有頂天になってつくった歌です。采女天皇に近侍する後宮の女官ですが、おそらく安見児は美女の誉れ高く、それだけにちょっと近寄りがたい女性だったのでしょう。

(この時代の美女の基準は、現代と同じだろうか)

年甲斐もなくはしゃいで、何の気取りもない歌をつくるところになど、この大政治家の愛すべき一面ともいえるでしょうが、正妻の鏡王女にとってはおもしろかろうはずがありません。

しかし彼女は、すべて耐えました。結局、受け身ということが、彼女の生き方ではなかったでしょうか。中大兄皇子を慕いながら情熱を燃やしつくすような行動に出るわけではなく、鎌足に求められれば結婚し、何とか家を守っていく・・・・・。妹の額田王のもつ奔放さや巫女性などかけらもない、ごく普通の女性です。それだけに、長年連れ添ううちに鎌足に対する愛情も深めていったと思われます。669年(天智8)、夫鎌足が臨終の床に臥せていたとき、その病気平癒を願う鏡王女の発願により、山階寺(やまなしでら)という寺が建立されました。同寺はのちに飛鳥に移って厩坂寺となり、さらに平城京遷都(710)とともに奈良に移って興福寺となりました。あの五重塔や鹿で名高い興福寺は、そもそも鏡王女が建てた寺、そして藤原氏の氏寺ともなった伽藍です

なお、鏡王女の御歌は、あと二首記載します。

巻四・489番歌と巻八・1419です。

また、鎌足は、天智天皇に春秋優劣の判定を求められているのが、万葉集巻一・16番歌の題詞にあります。

万葉集とのかかわりは、歌二首とこの題詞だけのようです。

記載に当たり、犬養氏の「わたしの萬葉百首 上巻」の「19安見児得たり」も一読しました。

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では、今日はこの辺で。

今日これから札幌へ。

次回の記載は、8月15日の予定です。