万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

149.巻二・93、94:内大臣藤原卿、鏡王女を娉(よば)ふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首と内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌一首

杉本氏の下の本を引用しました。

f:id:sikihuukei:20170704034832j:plain

第2章の鏡王女、その第4項の「わが名し惜しもーーー藤原鎌足との結婚」です。

「鏡王女にかかわりを持つもうひとりの大物は、中臣鎌子(614~669)・・・。いうまでもなく、中大兄皇子とともに曽我宗家を滅ぼし、二人三脚で改新政治を押し進めた人物であり、死の直前には「藤原」の姓を与えられて、のちの平安朝時代に全盛をきわめることになる藤原氏の祖となった藤原鎌足です。

その鎌足が、鏡王女に求婚しました。斉明帝時代のことといいますから、鎌足は50歳に近く、一方、鏡王女は20歳代でした。その年齢差をこえて鎌足は鏡王女に魅せられたのだ、と言いたいところですが、じつは中大兄皇子が、臣下にして盟友の鎌足に彼女を与えたのだという説も根強いのです。事実、当時は皇族が、臣下に対する信頼のあかしとして自分の妻を下賜することがあり、それは臣下にとってこの上ない名誉とされました。これでは女性は、まるで「物」のようですが、古い時代の習わしを現在の価値観・倫理観で非難してもはじまりません。

しかし、鎌足が熱心に鏡王女に求婚したのも事実でした。そして、初めて鎌足をゆるしたときに鏡王女が作ったの次の歌、題詞は「内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首」となっています。」

93番歌

訳文

「とうとう結ばれてしまった二人ですね。夜明けとともに帰って行くあなた・・・。うわさはたちまち人の口にのぼり、浮名がぱっと立つでしょう。あなたはかまいません。でも、なぜか私は惜しい。あなたと並べてささやかれる私自身の名前が・・・」

書き出し文

「玉くしげ 覆(おほ)ふを安み 開けて行かば 君が名はあれど わが名し惜しも」

「くしげ(櫛笥)」は櫛を入れる箱、玉はその美称。櫛笥の蓋は覆うのも開けるのもやさしいところから、「玉くしげ覆ふを安み」は、「開けて(明けて)」にかかる序詞になっています。

中大兄皇子への思いを断ち切れないでいたとも、「物」として扱われることに抵抗を覚えていたとも考えられますが、鏡王女にしては軽い感じの歌調から、こんなちょっとした嫌味を言えるくらいに、むしろ彼女は、鎌足と心が通じ合っていたと解釈することも可能でしょう。

もちろん、こんなことを言われたくらいで、老獪な鎌足は腹など立てません。おそらく、にんまり笑いながら次の歌をつくったはずです。」

94番歌

訳文

「まあ、そのようにご機嫌を悪くなさいますな。共寝せずには、とうてい耐えがたいほど、あなたに夢中になっていた私なのですから」

書き出し文

「玉くしげ みむろ山の さなかづら さ寝ずはつひに ありかつましじ」

「「みむろ山」は三輪山、「さなかづら」はつる草の一種で、サネカズラともアケビともいわれています。上三句は、「さ寝」にかかる序詞です。

こうして、鏡王女は中臣鎌足の正室に迎えられ、後半生をともに暮らすこととなります。(鏡王女は、中臣(藤原)家の家事を切り盛りする家刀自(いえとじ)として生涯をまっとうしました)」

引用を終わります。

鏡王女は巻二・92、93番歌、巻四・489番歌(巻八・1607番歌と重複)、巻八・1419番歌の四首を万葉集に収められています。

なお、巻八・1419番歌は、あの志貴皇子の「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」(巻八・1418番歌)の次の歌で、天平当時から高い評価を得ていたかわかりますと、杉本氏は述べています。

巻八・1418、1419番歌の記載が楽しみです。

下の本にも、「胡女ーーー鏡王女の立場から」として、めぐる一人として記載されています。

f:id:sikihuukei:20170721035300j:plain

では、今日はこの辺で。