万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

136.巻一・63:山上臣憶良、大唐(もろこし)に在る時に、本郷(くに)を憶(おも)ひて作る歌

前の62番歌の続きです。

訳文

「さ、皆さん、早く日本(やまと)へ (大伴の) 御津(みつ)の浜松が 我々の帰りを待ち恋うているでしょうから」

書き出し文

「いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ」

下の本から引用します。

摂津国の「津」は港の意である。天皇の港であるため、敬意をこめて「御津」と呼ばれた大和の思って玄関である。唐や新羅に派遣された人々にとって「御津」は船旅の終わりを意味していた、「御津」から都までは安全な陸路である。海外旅行の帰り、国際空港での入国手続きといった趣きか。

御津」を目指す歌の代表は、遣唐使山上憶良の63番歌である。」

62番歌とその訳文を記載、歌への説明が続きます。

「「いざ子ども」は同行の仲間への呼びかけである。唐の港を出港する時の歌であろう。「大伴の」は「御津」の枕詞。大伴氏が以前から「御津」を管掌していたことから掛かるといわれている。「万葉集」の中にあって唯一海外で詠まれたこの歌からは、「御津」への到着と、日本への帰国とが同じ感覚であったことがうかがえる。

・・・大阪の地形は大きく変化している上に、・・・

・・・都市化され・・・発掘もままならない。それでも有力視されている地は二か所。一つは大阪市中央区の三津寺筋付近。今一つは同区高麗橋付近。・・・後者がやや優勢か。

ただし、天平五年(733)の遣唐使を送る歌(巻十九・4245)には、

・・・歌の書き出し文と訳文を記載・・・

と、御津が住吉にあることになっている。・・・

ただ、「御津」がどこであるにしても、複数あるにしても、現在の街の眺めから往時を想像することは不可能である」

引用を終わります。

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下の上野氏の本から、「遣唐使の目的は、日本が臣下の関係にある中國皇帝へ拝礼し、最先端の文化や学問を吸収すること。630年から894年まで続いた」と記載し、遣唐使の歌として、巻九・1784を紹介し、また、遣唐使について説明、さらに、ひと言として、「鑑真和上と阿倍仲麻呂は、日中友好のシンボルである。奈良西ノ京の唐招提寺を訪れる中国要人が多いのは、そのためである」と述べています。

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大阪の街は数度しか訪れたことがなく、現在の大阪の街は関西空港伊丹空港での離着陸時の眺めだけです。

万葉の旅の82~83頁の地図と牧野氏の美しい「摂津の国」の画像を眺めながら、地図の摂津、住吉の御津、三津の崎、住吉などの位置を確認していますが、やはり遣唐使の時代の街の姿は想像できません。

では、遣唐使の映画の舞台として、どのような街を造るのだろう。

では、この辺で。