万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

135.巻一・62:三野連(みののむらじ){名欠けたり}の入唐のする時に、春日蔵首老の作る歌

62番歌のあとの63番歌は、「山上臣憶良、大唐に在る時に、本郷(くに)を憶(おも)ひて作る歌」と題する歌です。遣唐使の出立の際の無事を祈った歌と、帰還の際の歌とを配しています。63番歌は次回記載したいと思います。

62番歌

訳文

「(ありねよし)対馬の海路、その海のまっただ中に幣(ぬさ)を手向けて無事を祈り、早く帰って来たください」

書き出し文

「ありねよし 対馬の渡り 海中(わたなか)に 幣取り向けて はや帰(かへ)り来(こ)ね」

題詞によると、三野連某が遣唐使として唐に渡る時に、春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)が作った歌であるという。大宝元年(701)に勅により還俗した元僧侶で、法名を弁基といった。この歌は大宝2年の遣唐使派遣(任命は元年)の際の歌であることが知られている。

明治5年(1872)、生駒山の東麓丘陵から銅版の墓誌が発見された。銘文には大宝元年遣唐使に任ぜられ、霊亀(れいき)2年(716)従五位下となって主殿寮(とのもりょう)の頭(かみ)に任ぜられ、神亀(じんき)5年(728)67歳で没した「美努岡万(みののおかまろ)の名が記されていた。三野連は「続日本紀」に美努連岡麻呂と記す人物であることが判明した。

・・・遣唐使のメンバー紹介・・・

一行には、万葉歌人山上臣憶良も加わっていた。天智2年(663)8月、白村江の戦いで大敗した大和朝廷は、翌3年以に・・・4年・・・6年には・・・に城を築った。

対馬は、大陸からの侵攻に対する防衛拠点であり、遣唐使(北路)・遣新羅使の航路の日本における最終出発地として重要である。対馬の渡の渡は船で渡るところで、ここでは対馬海峡をいう。枕詞「ありねよし」は、「在嶺(ありね)よし」の意と考えられる。「---よし」という語構成の枕詞は、「玉藻よし」「青丹(あをに)よし」などあり、上接の語を讃(ほ)めた枕詞である。

・・・「幣」は神に祈るときに捧げた幣帛(へいはく)で、木綿・麻・紙などで作った。それを海中にたてまつるのは海の神に祈る行為である。当時は新羅との国際関係が悪化しており、・・・大宝2年の遣唐使以降は朝鮮半島西岸を北上する北路をとらず、肥前から直接唐に渡る南路をとったと考えられ、老(おゆ)歌は従来の航路を想定しての歌であろう」

下の本から引用しました。

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対馬へは行ったことがないのですが、牧野貞之氏の美しい「対馬の国」の画像を観ながら記載しました。では、今日はこの辺で。