126.巻一・40、41、42:伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌
持統六年の初の伊勢行幸が行われた。農繁期なので三輪高市麻呂(壬申の乱の時の功臣)二度にわたる諫言を退け決行。都からの柿本人麻呂の三首は秀逸であるという。
訳文(前の歌意です、訳文を先にします)
40番歌
(あみの蒲に船乗りをしているだろう娘子(おとめ)の玉裳の裾に潮は満ちただろうか)
41番歌
((釧(くしろ)つく)答志島(とうしじま)の崎に、今日も大宮人たちは玉藻を刈るのだろうか)
42番歌
(潮騒の中、伊良虞の島のあたりを漕ぐ船に妻は乗っているのだろうか。荒い島のまわりを)
書き下し文
40番歌
「あみの蒲に 舟乗りすらむ 娘子らが 玉裳の裾に 潮満つらむか」
41番歌
「釧つく 答志の崎に 今日(けふ)もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ」
42番歌
「潮(しほ)さゐに 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島回(しまみ)を」
下の本を引用しています。
「あみの蒲」は鳥羽市小浜町の南部かといわれる。そうだとすると、鳥羽駅の北西の海ということになる。浪の穏やかな内海であり、船に乗り込んだ娘子たちの笑い声が聞こえて来そうである。
二首目の「釧」は、いわゆるブレスレットのこと。
「答島」の原文は「手節(てふし)」とあり、釧をする手首の意からかかる。その「答志の崎」は現在の答志島の崎。答志島までは鳥羽港から市営定期船で約二十分。
「釧つく 答志」は船に乗って島へと渡る女性たちを映し出す。
玉藻刈るのも基本的に女性の仕事だが、「大宮人」たちは楽しみながら藻を刈っているのだろう。
一首目の「娘子ら」は土地の女性ではなく、ブレスレットをはめた「大宮人」であった。
三首目の「伊良虞の島」は、答志島の更に沖に浮かぶ、三島由紀夫の「潮騒」舞台となった「神島」とする説がある。また、対岸に位置する渥美半島の伊良湖岬ともいわれる。
・・・いずれにしても・・・徐々に空間は遠心的に離れて行くのに対し、「娘子」→「大宮人」→「妹」と想い人は求心的に近づいて行く。
三首とも「らむ」という推量表現を用いて今ここにいない娘子たちの映像を提示する。留守を任された者たちは、それぞれ意中の「妹」への思いをかき立てられたことだろう。
引用を終わります。
留守の都は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮です。
留京三首と称されているようです。
今回から訳文、書き出し文の順で記載したいと思います。上野先生の本を読んで。正確には、読んでいる途中です。訳文を読んでから書き出し文、そして、時により原文を記載します。訳文、書き出し文の順の方がわかりやすく、読みやすいなと思ったからです。
では、今日はこの辺で。