万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

122.巻一・32、33:高市古人、近江の旧き都を感傷して作る歌 或書に云はく、高市連黒人なりといふ

32番歌

「古(いにしえ)の 人にわれあれや 楽浪(さきなみ)の 古き京(みやこ)を 見れば悲しき」

33番歌

「楽浪の 国つ御神(みかみ)の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも」

<歌意>

32番歌

(遠い昔の人でわたしはあるというのか、そうではないのに、楽浪の近江の古京を見ると悲しいことだ)

32番歌は、下の本を引用します。

「人麻呂の近江荒廃歌(29、30、31番歌)に引き続いて載る、黒人の旧都を悲しむ歌二首のうちの一。人麻呂歌と異なるのは、人麻呂が「むかし人」(31番歌)というのに対して、こちらは「いにしへの人」ということである。ムカシトとイニシヘとでは、距離の取り方が違う。ムカシはなおつながりもつ過去として対するのだが、イニシヘは、隔絶した過去として対し、はるかに離れたものとしていうのである。「古の人に我あれや」には、自己を突き放すような感覚がある。巻三・305には、「高市連黒人が近江の旧き都の歌一首」として、「かく故に 見じと言ふものを 楽浪の 古き京を 見せつつもとな」がある。こうだから見ないというのに近江の旧都をいたずらに見せて、というのである。同じ時の歌かどうかはともあれ、情緒的ではなく、突き放したようにして歌うことは同じである」f:id:sikihuukei:20170624043343j:plain

33番歌

(楽浪の地を支配する神の霊威がおとろえて、荒廃した都、この都を見ると悲しくてならない)

33番歌は、下の本を。

「・・・今度は高市黒人の歌。同じく志賀の都の荒れたのを詠んで、・・・

・・・33番歌・・・

この歌はこういうことだ。人麻呂と全然違うんです。人が違うとこうも違うかと思う。人麻呂はみんなの気持ちを代表して、ちょうどお芝居でいえば歌舞伎のような大きな舞台でね。深い慟哭を言う。ところが高市黒人は、・・・今度は小劇場ですね、みんなの前でみんなの気持ちを代表してじゃなくて、高市黒人という人は、自分の心の中を反省し、内省し、そして心の姿を歌う。この人は、高市黒人という人は十八首の歌しか詠んでいない。短歌ばかりですが、すばらしいうたですよ。

・・・この人はみずからを省みる。・・・

・・・中略・・・

うらさぶというのは魂の遊離した状態です。どこかへもう魂が行っまった。ささなみの、国土の神。国土を支配する神。国が栄えるっていうのは国の地霊ですね、地霊が栄えることなんだ。その地霊がもうどこかへ遊離しちゃって、どこかへ行っちまった。そうしてもう蕭然(しょうぜん)と荒れた都。もう本当に荒れきってしまった、その都をみると、たまらないなぁというんです。

これはね、人間の目で見えない世界でしょう。

・・・中略・・・

黒人はね。人間が見えない世界、土地の中の魂、地霊が神様がもう戦争が終わってもう荒廃してしまって、どこかへ行っちまった、その荒れたる京を見えば悲しも。

われわれがこの間の戦争、戦争後の、どうでしょう、虚脱状態というのでしょうか。まさにあれは魂がみんなどこかへ行っちまった感じですね。そのように荒れてしまったというのは、これによっぽど内象できる人、哲学的な人、思索型の人でなければ出来ない。

その点でこの黒人は、たった十八首しか歌がないけれど、いい歌ばっかりです。人間の個の世界。大勢の公の世界ではなくて、個の世界をじっと見つめるような深い歌がある。人麻呂と全く違う態度ですね。

・・・中略・・・

人麻呂と黒人とが、この近江の荒れたる都に対して、どう変わった形の歌をうたっているかを思いながら、二つの歌(30番歌と33番歌)うたってみましょう。

「ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ」

「ささなみの 国つ御神の うらさびて 荒れたる京 見れば悲しも」」

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近江荒都歌は、人麻呂の29、30、31番歌と黒人の32、33番歌をいっしょに読んだ方がいいですね。

第二次世界大戦後の戦後の昭和22年生まれですが、食糧難の面影がまだあり、両親、小・中学校の先生、職場の上司などによく戦時体験や戦後の食糧買い出しなどの話を聞いたものです。そんなことも思い出しながら記載しました。

では、今日はこの辺で。