万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

116.巻一・22:十市皇女、伊勢神宮の参赴(さゐで)ます時に、波多の横山の厳(いはほ)見て、吹芡刀自(ふふきのとじ)が作る歌

22番歌「河の上の ゆつ磐群(いわむら)に 草生(くさむ)さず 常にもがもな 常処女(とこをとめ)にて」

<歌意>

(川の中の神聖な岩々は、草も生えず常にみずみずしいが、そのように、いついつまでも常処女でいたいものだ)

歌の解説は、犬養氏の本から引用します。氏の本の第7首目のです。「ゆつ磐群」

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「この歌には題詞、前書、がありまして、こうかいてある。「十市皇女伊勢神宮にお参りなさったちくに波多横山の厳を見て、吹黄刀自という人が詠んだ歌」だとあるのです。さあ、十市皇女っていう方は、大海人皇子、後の天武天皇ですね、と額田王との間に生まれたお嬢さんです。そして、この方は天智天皇の坊ちゃんの大友皇子の奥さんになったんですね。そうしますと壬申の乱、皆さんご存知でしょう。西暦六七二年壬申の乱のとき、大海人皇子は六月二十四日、吉野を出発して近江朝廷の大友皇子のところに攻め込んでいくわけですね。そうして大友皇子は進退きわまって、七月の二十三日に長等(ながら)の山前(やまざき)というところで、琵琶湖のほとりでね自殺してしまった。ところが中世にはね、壬申の乱でなぜ大海人皇子が勝ったか。これは十市皇女が、いまで言えばスパイみたいにして近江朝廷に入っていたからだという説がある。伝説がある。しかし僕はねぇ、十市皇女はやはりお父さんを思い、それから夫を思い、間に入って悩んだと思う。戦争が終わって大海人皇子は、飛鳥に帰られて天武天皇となられる。そのとき十市皇女はお父様のところに引き取られているですね。そのときの十市皇女の気持ちを考えたら、全く生ける屍みたいじゃなかったかと思う。それでよくお宮参りをされたんでしょう。

さてこのお歌の左の注にこう書いてある。

・・・中略・・・

川のほとりの神々しい、神聖な岩の群れに草が生えていない。・・・いま洗いたてみたいな岩、それは永遠の処女(おとめ)であってくださいよっていう、お嬢様のことを思っての祈りの歌だと思うのです。

・・・中略・・・

西暦六七八年四月七日にとうとうお亡くなりになるんです。「日本書記」にはこう書いてある。

・・・中略・・・

宮廷に入ってみたら「にはかに病起こりて宮のうちに薨りましぬ」・・・僕はね自殺だと思う。今日も自殺説と、この字のとおり急病説だという人とおられるんですけど、僕は自殺するのも当然だと思う。そういう気持ちですね。で、ところがそのお亡くなりになったとき、同じ天武天皇の坊ちゃんの高市皇子が、

・・・皇女の死を悼んだ挽歌あるんですね。・・・

それではこの十市皇女は本当に激動期の中の悲劇の女性ですね。そうしてこの歌。この歌に関しては、吹黄刀自の青春賛美の歌だという説もあるけれども、僕はご主人のお嬢様の命を思っていたと思う。河の上の神々しい磐の群に草が生えていない。見事な客観をつかんで、その客観の上に乗って、あぁ永遠であってください。このように永遠であってください。永遠の処女(おとめ)でという歌ですね。大変悲しい歌だが、思い深い歌ですね。じゃうたってみましょう。

河の上の ゆつ磐群(いわむれ)に 草生(む)さず 

常にもがもな 常処女にて」