万葉集の日記

楽しく学んだことの忘備録

111.巻一・13、14、15:中大兄(近江宮に天の下治めたまひし天皇)の三山(みつやま)の歌

13:「香具山は 畝傍雄雄(うねびをを)しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」(香具山は畝傍山を雄々しいと思って、耳成山と争った。神々の時代から、こんなものであるらしい。遠い昔の神の世でもそうだから、この人間の世でも妻を争うらしい) 反歌

14:「香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)」(香具山と耳成山とが争った時、立って見に来た印南国原だ、ここは)

15:「海神(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたくも)に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけくありてこそ」

右一首の歌は、今案(かんが)ふるに反歌に似ず

(海神の祝福のしるしの、空を横断する旗雲に入り日のさすのを見た、今夜の月夜はさわやかに明けてほしい)

(海神のたなびかす見事な旗雲に夕日が沈むのをみた。今夜の月は明るく照ってほしい)

13番歌は、三山のどれが男でどれが女とみるか、額田王をめぐる天智と大海人皇子の争いを背景に詠ったものではないかなど諸説あるのだそうですが、歌の主意は人が恋の争いに苦しむのは神代以来のことだという感慨にあるという。

14番歌は、印南野を眼の前にして、香具山と耳成山との争いをおもうことが、13、14歌を成り立たせたとうけとられるが、印南野については、播磨国風土記揖保(いいぽ)郡に伝える、出雲の国の阿菩(あぼ)大神が三山が闘うと聞いて諫めようとしてやってきたが、闘いが止んだと聞いて、その乗ってきた船をふせてとどまったところが神阜(かみおか)さ、という記事によって「見に来たのは印南国原だ」と理解するのが通説となってきたが、地理的にも、諫めようとした話にも合わない。印南国原が立って見に来たという説もある。歌からだけでは決めようがないという。そうしたわかりにくさをこえて見なければならないのは、神代とこの現実とがつながってあるというたしかな実感のなかにいるということであろうと。

15番歌は、犬養氏の「わたしの萬葉百首」の3の歌です。解説が素晴らしいです。「・・・西暦661年、斉明天皇の七年。日本が朝鮮の新羅と戦ったときに船が一月六日に難波を出た。そうして播磨灘の沖合に来たときの歌なんですね。・・・」、解説は、「・・・堂々とした、すばらしい歌ですね。じゃあ、もう一度うたってみよう」でおわる。

下手な要約より本を読んでいただければと思います。

参考にした本です。

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天智天皇のお歌は、集中にもう一首。巻二・91で、計四首です。

万葉時代の前半を動かし、律令制度を確立したのは、天智・天武・持統の三天皇で、歌人としても優れた歌を詠んでおられる。

瀬戸内海の夕日を見たことがないのですが、きれいなのでしょう。石狩湾の朝日もきれいです。雲の具合で一層きれいになります。

万葉時代の時代区分には諸説があるようです。三期に分けている説もありますが、上の図説の万葉集の時代区分を記載します。

第一期:舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)まで

第二期:壬申の乱後、平城京遷都(710年)まで

第三期:平城京遷都後、山上憶良没年(733年)まで

第四期:山上憶良没年後、最終歌が詠まれる(759年)まで

それぞれの歌風や代表的な歌人は略しました。午前五時過ぎですので、今日はこの辺で。